新・じゃのめ見聞録  No.15

山本覚馬の「管見(かんけん)」の序文とクリミア戦争

2014.4.10

 昨年、NHK「八重の桜」が始まったときに、山本覚馬の「管見」(ネットで「山本覚馬建白」で検索すれば原本が見られます)をどうしても学生に紹介してあげたくて、全文を私訳して希望する学生に配って見せてあげたことがありました。全くの私訳なので、正確さには欠けるものではあったのですが、『改訂増補 山本覚馬伝』京都ライトハウス版の古風な文章ではどうしても、学生は読めないので、読むための手助けくらいにはなるかもと思って、私訳しておきました。その時に、「序文」に当たる部分で、よくわからないカタカナがありました。その時は、気になりながらも、そのままにして私訳に中に入れておきました。一年前ならそれでよかったのですが、今年の2月3月からの、激動する東ヨーロッパの世界情勢を、はらはらしながら見ているときに、ふと山本覚馬の序文の不明だと思っていた カタカナに重大な意味があったのではないかと思いつきました。それで早速調べてみました。不明だったカタカナとは「セバステボル」という文字なのです。一年前も調べてはいたのですが、よくわかりませんでした。というよりか、当時の幕末の世界情勢が切実には感じられていなかったのです。ところが、今年の2月3月に、世界が大きく動いて、今回、はっきりとわかったのです。覚馬の書いていた「セバステボル」とは「セヴァストポリ」というクリミアの一部だったことが。そうして、改めてこの「管見」の序文を読み直したときに、この文章が今の東ヨーロッパで起こっているとぴったりと重なることに気がつきました。びっくりしました。その「序文」の私訳を、ここでそのまま紹介します。「セバステボル」を「セヴァストポリ」と置き換えて読んでみてください。

私見への手引き

日本をとりまく外国の通信(状況)を聞くと、ロシア等は強大になり、北蝦夷地(カラフト)を開拓し、昨年には幕府の関わる境界にまで及んできている。そこは不毛の地なので、お互い好きなように自分の領地にするとしても、「天地の道理」には問題はないという議論をへて、先年、箱館に番兵を置いた。これは碁に例えれば、先手を下すようなものである。ある人が、かつてロシア人と話をした時に、ロシア人は地球儀を指さしてこう言ったという。「日本もいよいよ黄地(アジアの一部)になりなさい」と。ロシアも元は黄地に属していたものである。この事から考えてみると、ロシアはアジアの一つとして日本を吸収しようと考えているのかとも思える。三年前に、ロシアが対馬に侵攻した時、イギリス人の力にて、対馬を取り戻したが、イギリス人は上海を根拠にして、友好国、日本と貿易をしていたので、対馬がロシアに属することになるとイギリスが不利になるので、ロシアもイギリスもフランスも日本の隙を窺ってはいたが、それを軍事力でもってしようとするわけではなく、日本の内戦をにらみながら、その動乱に便乗して日本に入り込もうとしていた。元来、フランスは、策略をもって徳川幕府と親しくなり、又、イギリスは薩長に同じようにして近づいていた。そういう思いを持ってイギリスは関西に、フランスは関東に拠点を置こうとしていた。フランスの「ナポレオン」は、前「ナポレオン」の甥であって、一時は共和政治を主張して、皇帝を追放し、自分がその位を奪った訳だから、誠実であるわけではない。かつて、ロシアが「トルコ」を侵略し、「セバステボル」で戦った時に、イギリスとフランスは、「トルコ」を支援したが、それは自分達の国に利益があるからである。日本がこうした三国(イギリス・フランス・ロシア)と交際する時には、そういう事情をよく理解すべきである。ここで我が国が不利益になるのを防ぐには、国の指針をしっかりと立て、富国強兵することである。日本のこの騒乱の時にこそ、そういうふうに変化しようと思えば、しやすい時である。このように、文明における政治やその実施のありかたについて考えましたが、愚かな考えでもあり、また私の両眼も見えませんもので、人に頼んで口述筆記をしてもらいました。抜け落ちているところも多いのですが、識者ある方々の良きご判断をお待ちするのみです。

慶応四年戊辰五月 山本覚馬

いかがでしたでしょうか。恐ろしいほどの、先見の明のある文章です。これが目の見えなくなってきた会津の武士によって幕末に書かれたとは、想像することもできません。私にできることは、彼が当時知り合っていた赤松小三郎や西周らとどこまで交流を深めていて、どこまで彼らの世界観の影響を受けて、こういう「管見」を構想するに至ったかを調べることです。もちろん福沢諭吉の『西洋事情』からも情報を得ていたと思います。それは、現在のクリミア問題を考えることにもつながることを思うと、歴史を学ぶことの大切さを感じると共に、幕末と現在のあまりにも近さに不思議な思いを感じないわけにはゆきません。

ちなみに言いますと、新島八重は「日本のナイチンゲール」と誰かが呼んできたのですが、このナイチンゲールが最初に38名の看護婦と共にロンドンを出発して、おもむいたのが1854年に始まったクリミア戦争でした。ナイチンゲール34歳の時でした。(この年に、日本では江戸幕府が「日米和親条約」に調印しています。)その戦争の最前線が「セヴァストポリ」で、トルコ、イギリス、フランス、イタリアの連合軍とロシアがそこで激しく戦いました。

世界で初めて「タイムズ」紙が従軍記者を派遣し、戦争の様子を刻々と英国に知らせたのもこのクリミア戦争からで、その時に戦争の惨事とともに、負傷兵を看護するナイチンゲールたちの活動が本国に報告され、看護婦の仕事の大事さが多くの人々に知られるところとなりました。「クリミアの天使」という呼び方も、この時生まれました。

こうした幕末のヨーロッパの動きがいち早く日本に伝えられ、クリミアと同じように、ロシアの蝦夷への進出が日本でも警戒され、それが山本覚馬の「管見」に反映されることになるのですが、当時の幕末の動乱期に、こうした世界情勢まで視野を広げることはとうていできることではありませんでした。現代でも、クリミアへのロシアの進出を、覚馬のように我が国に係わる出来事としてとらえることがむずかしいのと同じようにです。